第15回ウォーキングの会
平成23年10月23日(日)、今回は元宮内庁におられた平馬先生のご案内により江戸城の歴史と植物の解説を聞きながらのウォークを楽しませていただきました。
スタートは「桜田門」ー幕末期この門前で「桜田門外の変」が起き歴史が大きく動きました。
この門は「枡形門」と言われる非常に巧妙な防御施設だそうです。手前の一の門(高麗門)と入ってすぐ右側に二の門(渡り櫓門)があり、高麗門から侵入した敵を右櫓門の上から攻撃することが出来るのです。
次に向かったのが皇居前広場、ここから望む「二重橋」その後方の「伏見櫓」が見事で人気の観光スポットです。
二重橋は、奥の「鉄の橋」のことだそうですが、当時「木の橋」で橋桁を二つ取り付けたことから「二重橋」と呼ばれ、手前の「石の橋」は皇居正門と呼ばれています。
次に「坂下門」から「桔梗門」へと歩を進めました。桔梗堀の水面に映る「桜田巽櫓」が見事です。続いて左折し、右手に和田倉噴水公園を見ながら「大手門」に向かいます。
「大手門」ー江戸城最大の門、当時十万石以上の大名が警護に当たっていた「江戸城の正門」ですが、ここで大変ショックを受けました。
「壁」があちこちで大きく剥げ落ちているのです。
先般の「東日本大震災」の大きさを改めて実感するものの、大変「がっかり」いたしました。
「大手門」から皇居東御苑の散策に入ります。
先ず「大手三の門」は徳川家御三家以外はここで駕籠から降ろされた別名「下乗門」、最大の検問所であった「百人番所」、「中雀門」そしていよいよ「本丸御殿」です。
「中雀門」を通り左奥に進むと「富士見櫓」別名「八方正面櫓」があります。
どこから見ても正面となる美しい三重櫓で「天守閣」の代わりとなったそうです。
次に「忠臣蔵」の舞台となった「松の大廊下」を通り天守台に向かいます。
江戸時代を通して最大の火事であった「明暦の大火」により寛永度の天守閣が焼失し、以後「天守閣」は再建されず「天守台」だけが再建されました。
ここから本丸御殿跡を見渡すと全体で約一万一千坪、その内60%超が「大奥」で占め、そこに「御台所」以下一千五百人もの女性群が生活していたそうです。
天守台のすぐ脇にモザイク模様の華美な八角堂「桃華楽堂」が目に入ります。
香淳皇后の還暦祝いに建立された音楽堂です。
次に「本丸展望台」に向かいます。
眼下に「白鳥濠」「二の丸公園」を、林越しに東京駅をはじめとした丸の内ビル群を望む素晴らしい眺め、多分夜景もきれいでしょう(但し残念ながら夜間は入園禁止)。
次に「汐見坂」を下り「二の丸庭園」に参ります。
回遊式庭園で「小堀遠州」作と言われるこの「二の丸庭園」には武蔵野をイメージした「雑木林」その奥に「菖蒲田」、池には珍しい「ヒレナガニシキ鯉」が餌を求めて寄ってきます。
インドネシアの「ヒレナガ鯉」と日本の「錦鯉」を交配したそうです。
そこから「都道府県の木」の脇を通って梅林坂から「平川門」に進みます。(ちなみに、東京都の木は「イチョウ」、花は「ソメイヨシノ」、鳥は「ユリカモメ」です)
「平川門」は別名「お局門」とも呼ばれ奥女中の通用門です。
なお、この左側にひっそりと「不浄門」があります。
ここから「死者」を運び出しておりましたが、生きて出された人が二人いました。
「浅野内匠頭」と「絵島生島事件」のお年寄り「絵島」です。
いったん城外へ出て「清水門」から再度入城、ここから「北の丸公園」の散策です。
「清水門」も「枡形門」で、入ると「雁木坂」があります。
高さと幅がある大変歩きづらい坂になっています。
公園内を一巡りして「田安門」から城外に出ます。
この「田安門」も大変美しい「枡形門」になっており、門内には、かって徳川御三卿の内「田安家」「清水家」の屋敷がありました。
城外を左に「千鳥ヶ淵」から「半蔵門」そして「桜田門」に向かい急ぎます。
「半蔵門」は二代目服部半蔵から付けられた名前で「槍の半蔵」と呼ばれ近くの四谷「西念寺」に「墓」と家康から貰ったといわれる「槍」も保存されています。
さあ、最終コーナーです。
当時、井伊直弼の上屋敷があった「憲政記念館」の脇を通り桜田門に向かいます。
ほんの僅かな距離の門内に「直弼」が逃げ込んでいれば歴史もまた変わっていたでしょう。
そんな事も考えながら「楠公レストラン」に急ぎます。予定よりかなり遅れてしまいましたが「楠公レストラン」で懇親会を開きました。
平馬先生にもご一緒いただき大いに盛り上がった楽しいひとときでした。
今回はかなりハードな行程でしたが、内容の濃い有意義なウォーキングだったと思います。
また違う季節に来て見たいとも思いました。
平馬先生には感謝、感謝です。
記:白鳥章夫(39年 商)